「ガーナの歴史を知ろう その1 ヨーロッパ人ガーナに来る」ガーナで青年海外協力隊員をしております。活動もそろそろ終わり。ということでいろいろなことをまとめている次第であります。というわけで今回はガーナの歴史。 ガーナという国名は新しいもので1957年に採用されました。その前はゴールドコーストと呼ばれておりました。ガーナはとにかく昔は「金」の宝庫だったのでそう呼ばれていたのでしょう。 私的なコメント 〇1471年 ポルトガル人ガーナ沿岸到着。 ここで「サン・ジョルジ・ダ・ミナ」という砦を作ったそうでそれが現在のガーナで有名なエルミナであります。ここでのポルトガル人の目的は「金」を買い取ることです。それに対してガーナ側は何を買ったかといいますと、布、金属商品、ビーズ、そして多数の奴隷(ベナンやコンゴあたりからつれてこられた)だそうです。同じ黒人同士なのに奴隷として買っていたのです。驚きですなー。
〇16世紀になるとヨーロッパ各国登場(オランダ、イギリス、スウェーデン、デンマーク) 1637年 オランダがエルミナ奪取。 だいたいイギリスとオランダに絞られる。 もちろん、ヨーロッパ各国の目的は「金」です。しかし誤解なさらないように。「金」の場所はガーナ人しか知らなかったそうです。決してヨーロッパ人が奴隷を連れてって掘らしていたわけではありません。ヨーロッパ人は「金」の採掘場所には近づけなかったそうです。
〇17から18世紀 奴隷の輸出活性化(18世紀の100年間に68万人)。このころはすでにガーナ人は奴隷の輸入ではなく、奴隷を輸出する側に回っていたようです。この輸出する奴隷の調達もガーナ人によって行われたようです。このころ、いろいろあった王国が戦争をし、勝った国が負けた国の人間を奴隷として輸出したものと思われます。 ガーナで有名なケープコーストは1650年代にスウェーデンによって作られ、デンマーク、オランダ、イギリスと持ち主が変わっていったようです。
今回はヨーロッパとの関係をメインに15世紀から18世紀ごろまでのことを書いてみました。 |
「ガーナの歴史を知ろう その2 アサンティ王国」ガーナで青年海外協力隊員をしております。活動もそろそろ終わり。ということでいろいろなことをまとめている次第であります。というわけで今回はガーナの歴史2、アサンティ王国。 ガーナには数多くの王国があったようです。アサンティ王国、デンチラ王国、アダンシ王国などからは「金」が取れたらしいです。17世紀にデンチラ王国はアサンティ王国に攻められて18世紀には弱体化したみたいですが・・・ ほかにも東南部にはアクワム国、アチム国、北部にはマンプルシ人、ダゴンバ人、ナヌンバ人、ゴンジャ人などが住んでいたようです。ちなみにダゴンバ人、ゴンジャ人に攻められてイエンディと呼ばれるガーナ北東部に追いやられたそうです。
〇18世紀にはアサンティ王国が現在のガーナのアッパーイースト、アッパーウエスト以外の部分を勢力圏に納めたようです。その基礎を作ったのが17世末のアサンティ王オセイ=トゥトゥ。ガーナで有名な「黄金の椅子」の人です。 最初、南の沿岸を押さえていたのはファンティ王国。ということは貿易のメインはこの国であったわけです。アサンティ国を恐ろしく思い、ヨーロッパから得た武器を渡さないなどしていたようですが1806年に侵攻されました。旗色が悪くなるとイギリスに裏切られアサンティ王国の属国となります。このときアサンティ王とイギリスの総督が奴隷2000人を山分けしたそうです。
〇1808年 奴隷貿易廃止(ヨーロッパの方針) 1817年 アサンティ王国とイギリスが平和協定を締結 このときアサンテ王国に招待されたイギリス人は 「・・・われわれは原住民の王のいかめしさを野蛮と表現しがちだが、それはばかげた偏見である。アサンティ王の立ち振る舞いは威厳に満ちており、かつ優雅であった・・・」と記録したらしい。
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「ガーナの歴史を知ろう その3 イギリスとの戦い」ガーナで青年海外協力隊員をしております。活動もそろそろ終わり。ということでいろいろなことをまとめている次第であります。 前回はイギリスとアサンティ王国(ガーナ)の蜜月時代の話をしました。今回はガーナの歴史3、イギリスとの戦い。 〇1820年ごろまで関係良好だったイギリス、アサンティ王国ですが関係は次第に悪化していきます。原因はアサンティ国に攻められ、その属国になっていたファンティ人やイギリス人同士の不仲だったようです。 1821年 戦争開始。原因はイギリス人に仕えていたファンティ人がアサンティ商人との口論でアサンティ王を侮辱したことだそうです。イギリス人はこのときファンティ人の肩を持ったため戦争に突入。 1824年 イギリス総督マッカーシー戦士
〇1826年 ドドワの戦い。この戦いで初めてアサンティ王国が敗北します。アサンティ国が始めて揺らいだ。イギリスが軍事介入した。という2点が非常に重要なところです。 1831年 平和条約締結。アサンティ王国、金(きん)による戦争賠償と息子を人質にそして支配していた地域の開放を条件に締結。
〇1844年 諸王国、裁判に際してイギリスの介入を認める。(イギリスの司法原理を取り入れる) 1850年 各地の砦をイギリス入手 1863年 再びアサンティ王国とイギリスが戦争。原因はケープコースト城に逃げた逃亡者の引渡しをイギリス総督が拒否したことによる。アサンティ王国勝利。マラリア、赤痢、黄熱病などの病気によってイギリス軍が痛手を負ったため。アサンティ王は「森は大砲よりも強い」と語ったという。 1872年 アサンティ王国南部(イギリス領土)へ侵攻。雨季に入り撤退。 1874年1月 逆にイギリスが北部へ侵攻。「サグレンティの戦い」アサンティ王は和平を望む。 同2月 イギリス軍首都クマシに入城。王に会えず火を放って撤退。撤収途中に和平協定にアサンティ王合意。内容は金による賠償、沿岸諸国の独立を認める。の2点。 その後イギリスはアサンティ王国を除く南部沿岸を植民地に。
〇19世紀末 イギリス、フランスとの領土拡大競争激化 1896年 クマシ侵攻。アサンティ王抵抗せず降伏。アサンティ王プレンペー1世シオラレオネへ。(後にセイシェル島へ) 1900年 ヤー・アサントワ戦争。原因はイギリスの「永遠にイギリスの支配下」宣言と王国の象徴「黄金の椅子」の提出を求められたことによる。犠牲者イギリス272人。アサンティ王国数千人。 1902年 アサンティ王国植民地化 1924年 プレンペー1世1市民として帰国。
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「ガーナの歴史を知ろう その4 植民地下のガーナ」ガーナで青年海外協力隊員をしております。活動もそろそろ終わり。ということでいろいろなことをまとめている次第であります。 前回はイギリスがついにとアサンティ王国(ガーナ)を植民地化しました。 今回はガーナの歴史4、植民地下のガーナです。 〇1879年 諸説あるがテテ・クワシがカカオの生産を始めたとされる。 1902年 イギリス、アサンティ王国を植民地化。(植民地支配とは言ってもチーフ(首長)には一定の権限が認められていた)それによって金の採掘活性化。マンガン、ダイヤモンド、ボーキサイトなども発見される。 1905年 セコンディ−クマシ間の鉄道開通。 1914年 道路1部開通 1923年 アクラ−クマシ鉄道開通 1924年 道路全土に拡大 1930年代 カカオ不売運動 このころイギリスで教育を受ける新興エリートがでてくる。 またカカオ生産でぼろもうけをしていたのもこの時代。とにかくカカオを育てれば何でもできる。見たいな雰囲気があった様子。しかしそれも1930年ごろになるとヨーロッパに安く買い叩かれるようになり、カカオ不売運動をしたようである。 カカオについて少し補則を。カカオは1度育てると30年は実がなり続けるために非常に安定して収入が得られる。しかしながらガーナは母系家族なので突如、お父さんが死ぬとそのカカオは奥さん、息子には行かずその父の母方にまわってしまう(要するに父さんの兄弟に)。そのころカカオを育てている家族はそれのみ育てていることがほとんどだったので、それによって奥さん、息子は路頭に迷うという社会現象も起こったといわれている。
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「ガーナの歴史を知ろう その5 ガーナ独立からその後・前半」ガーナで青年海外協力隊員をしております。活動もそろそろ終わり。ということでいろいろなことをまとめている次第であります。 前回は植民地下のガーナの話をしました。今回はガーナの歴史5、ガーナ独立からその後です。1つ注を。ンクルマはガーナの独立の父と呼ばれている人です。 〇1940年代後半 物価の上昇、失業者の増大から独立運動が高まる。 1947年 「統一ゴールドコースト会議党」設立。ンクルマ事務局長就任。 1949年 ンクルマ上記を離脱。「会議人民党」結成。 1951年 立法議会選挙実施、ンクルマ首相就任。 1954年 選挙において会議人民党勝利 1956年 選挙において会議人民党再び勝利 1957年 ガーナ独立。サハラ以南アフリカの植民地で最初の独立。
〇1957年 ガーナ独立 1958年 裁判なしで投獄できる予防拘束法制定。それによって第一野党、統一党のブシアは弾圧を恐れイギリスに亡命。 1959年 アシャンティ州からブロング・アファフォ州分離(統一党の勢力圏を分離するため)。 1960年 共和制になる。ンクルマが初代大統領就任。 1964年 1960年の選挙の大統領対立候補ダンカ獄死。カカオ輸出に政府介入。それにより政府は歳入確保、農民は飢えた。 好調なカカオの輸出、豊富な地下資源、比較的高い教育水準があり、発展に向けていい条件がそろっていた。しかし国際収支はカカオ頼み、農業も工業も政府系企業頼みであった。それによって競争力が欠如しガーナの発展は失敗した。
〇1966年 無血クーデター。アンカラが国家元首に(国家開放評議会NLC)。国の隅々まで浸透していた会議人民党の影響力を一掃。(政党解体、政治犯の釈放、首長を解任。) 統一党ブシア帰国。 1969年 アフィリファが国家元首に(アンカラは汚職で辞任)。新憲法採択。 同年8月 総選挙。ブシアが新大統領に。政策として外国人による経済支配を取り除くため外国人を多く追放した。しかし労働力不足が深刻化した。 1970年 貿易ビジネスを行う外国人の活動制限。商業活動のガーナ人化を目指す。民間企業の活力重視をうたっていたが、しかし工業化は政府系企業に依存していた。 1971年 カカオの国際価格下落。物価が高騰し、賃金凍結、無償医療の廃止、増税などが行われる。
〇1972年 無血クーデター。国家救済評議会NRCを組織したアチャンポンが国家元首に。軍人政府を作る。 1975年 7人の軍人からなる最高軍事評議会SMC設置。権力の集中をはかる。政策は、食糧自給キャンペーン、企業活動の政府介入強化、為替レート引き上げ。これによって闇レートと公定レートの差が開き、ブラックマーケット蔓延。カカオ輸出衰退。汚職、腐敗蔓延。多くのガーナ人が出国し頭脳流失が起こる。 1977年 軍と警察と市民で政府を樹立すると言う「連合政府案」提案。(軍の政府正当化のため) 1978年 国民投票で同案が承認されたと政府が発表。反対勢力が多く逮捕されるがそれでもストライキなど頻発。 それによる責任追及でアチャンポン辞任。アクフォが国家元首に。平価切下げ、緊縮財政を行うがストライキ収まらず。戒厳令が出される。 1979年 政党結成自由化。政府「連合政府案」下げる。
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「ガーナの歴史を知ろう その6 ガーナ独立からその後・後半」ガーナで青年海外協力隊員をしております。活動もそろそろ終わり。ということでいろいろなことをまとめている次第であります。 前回はガーナ独立から国内の混乱をお伝えしました。今回はガーナの歴史最終回。その続き、やっと国内は安定してきます。 〇1979年5月 ローリングス、クーデター失敗、軍事裁判へ。しかし世間は同情的に見る。 同年6月 軍将校クーデター。ローリングス解放、軍部革命評議会AFRCの議長に就任。 アチャンポン、アクフォ、コフィリファらを銃殺刑に。 1979年 総選挙。人民国家党PNPのリマンが大統領に(ローリングスは国家元首にならず)。 同年9月 AFRCから政権移譲。政府は軍人解任をする。 1981年 カカオ生産者価格3倍に。しかし国際価格は変わらないため国が赤字に。インフレ率100%。闇レートと公定レート10倍の差に。
〇1981年12月31日 ローリングス2回目クーデター。ローリングスが今度は国家元首に。リマン文民政権終了。ただ処刑は行われず。水面下では多くの人が殺害されたと言われている。政策は、汚職、不正の一掃の名の下に軍人、公務員、民間人の蓄財に対して処罰。 社会主義政権に援助を求めるが、それがもらえないと知ると西側諸国に接近。 1983年 国際通貨基金IMF、世界銀行の勧告を受け入れ、自由主義的な経済政策である構造調整政策開始(経済に対する各種規制廃止、政府系企業縮小)それによってカカオの価格が安定。経済成長率も安定的にプラスになる。 1992年 西側の圧力や、選挙でローリングス有利と思われる状況であったため民主化へ。新憲法が国民投票で承認、10年半ぶりに政党活動解禁。ンクルマ系4政党、旧統一系(ダンカ・ブシア系)の親愛国党NPP、そしてローリングス率いる国民民主会議NDCが争うことに。 同年末 58%の指示を得てローリングス勝利。NPPが選挙に不正があったとして議員選挙を辞退。それによってNDCは大量議席獲得。 1996年 選挙でローリングス再び勝利。議員選挙もNDCが与党を維持。 1998年3月 ローリングス2000年末引退表明(大統領は憲法で2期8年までと決まっていたため、それに対して続ける意思がないこと、憲法を変えないことを表明) 。 同年6月 ローリングス、副大統領のミルズ応援を宣言。 2000年 大統領選挙で親愛国党NPPのクフォーが当選。議席も与野党逆転。これはガーナで初めて選挙による政権交代が行われたということ。長期政権の交代が平和裏に行われたということで画期的なことであった。 2004年 平和裏にクフォーが再び勝利。2期目に突入。 現在に至る。
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